プロフィール

こんにちは^^ Akiです。
お恥ずかしながら、自己紹介をさせて頂きます。

今でこそ、このように書けるようになりましたが、
自己肯定感が低く、人生を人に明かすなんて、
とんでもないことなのです。しかもウェブ上に!

ある意味、リハビリのような意味をもつページだと思ってます^^
もし、よろしければ、おつきあいください。

絵の好きな子どもだった?

  自覚はないのですが、幼児期の私は、絵を描くことは、
好きだったとのことです。(母の証言)

自分で絵を描きたい、と、強く思ったことを覚えているのは、
小学生3,4年生の頃、テレビの「アニメ アンデルセン物語」
だったか、うろ覚えですが、
オープニングかエンディングを見ている時でした。

ヨーロッパの街並み、無機質な壁や石畳に、次々と魔法がかけられ、
カラフルに塗り替えられていくという、わずか1、2秒の場面かと思います。

『わあステキ!私も街中をきれいな絵で埋め尽くしたい!』
『絵で街が明るくなる~!』
『ワクワクする~っ!』


放映のたびにそう思って観ていました。
絵を描きたい気持ちを自覚した出来事でした。

  地域の写生大会があるときは、進んで参加していました。
運よく入選しては、全校朝礼などで表彰され、
水彩絵の具やクレヨンの賞品がもらえました。


レアな証拠写真があるのですが^^一生懸命に描く姿を
たまたま一般カメラマンが撮影し、その写真が
地元新聞の写真部門で賞をとれたと、後日お礼の手紙と
その写真が送られてきたとのことです。下図(小学1年生)

前を向いているのが私
ワカメちゃんカット
2枚とも入賞なのかは不明。

肝心の絵のことは覚えていないし、
残っていないんです。


 母と兄は風邪気味だったようす
 場所は、豊田市鞍ヶ池公園

  また、年に1~2回、交通安全の啓発ポスターのための
大きな画用紙を校門のところで先生が配る時がありました。

自由参加だったのですが
白い紙に吸い寄せられて必ずもらって帰りました^^
やはり、好きだったんでしょうね。


賞ももらってた気がしますが、数は、覚えていません。
飾ってもらったことが、とてもうれしかった記憶です。

  絵の好きな父が、日展、院展など、
話題の展覧会があると、よく連れて行ってくれました。

私は、幼いなりに気に入った絵を選んでいた記憶があります。

少なからず、父からの影響はあるでしょうね。
そういえば、父が若い頃に使っていた油絵セットをもらって
中学生の時に見よう見まねでヘンな油絵を描きました。

  また、特記するなら、動物大好きということですね。
動き、性質、形など、じっと見続けているのが好きでした。

捨て猫、捨て犬、

落ちてきたスズメも連れ帰る^^
猫は、すでにいたので、飼い主探しをしていました。
柴犬、鶏、手乗り文鳥、紅雀、金魚なども飼いました^^


生き物に触れることで、
自然の神秘を感じることに役立っていたと思います。

幼い頃の体験、その影響


母は、お琴の師範だったので、私も2歳ごろから

訳も分からず教えられていました。

家の中は、お琴と三味線の音色がよく響いていて、
年に1度、流派の演奏会のために、舞台でのお辞儀の
タイミングまで、練習していました。

演奏会が近づくと、母のお師匠さん宅で、大勢のお弟子さんが
大広間に集い、演奏会の題目順に合同練習。
私は、順番まで、

ごそごそせず「良い子」で待つしかありませんでした。

大人は、やさしく声をかけてくれました。
『えらいねえ、良い子だねえ』

お師匠さんの号令の下、大勢の大人が、懸命に気を配り、

合同練習がうまく進むように働く姿を見ていました。

自分の態度が褒められるのは、うれしかったですが、
私は、「先生」という立場が、絶対的で、必ず従うものだ、
という強い印象をその頃に持ったことを

大人になってから自覚しました。

中学、高校と進み、友達は、先生とため口で話せるのに

私は、抵抗があり、言葉遣いも態度も硬いままでした。
それは、60代の今も基本的に変われないです。
良い人に見られようとしている猫を被った自分がいます。
もっと、自然に接したいと思っているのですが。

「三つ子の魂百まで」ですね。

成績はどうでもよくなってしまった~進学校に合格したのにやる気喪失

  私には、成績優秀な2歳上の兄がいます。
そんな兄に影響され、中学生になってからは、

まじめに勉強をするようになりました。
良い成績をとると、兄のように
認められたように思えました。

1970年代、全国的に偏差値教育が盛んな時、
家でも進学校に進むのが当然かのような雰囲気があり、
受験の波にのまれていったという感じですね。
自我というものがない状態とも言えます。

ところが、高校入学を機に、私の軟弱人生が始まりました。
きっかけは、入試の数学の応用問題を

1問解けなかったことが原因です。
一緒に受けた友達は、いとも簡単に解答できていたのです。


あれだけ勉強したのに、

結局は、地頭、才能の差なのだという虚無感です。

その後、試験が何度かあった際に、
よい成績が取れていたにもかかわらず、次第に、
勉強に熱が入らなくなってしまったのです。

勉強の本質は、ただ暗記することではなく、問題点を見つけ、
自ら答えを導く力を身に着けることですよね。
軟弱な私は、この時点で、早くも脱落してしまいました。

  
高2父が見つけてきてくれたデッサン教室に
勧められるままに、行くことになりました。

イーゼルを立てて、初めての木炭デッサン。
消すのは、練りゴムではなく、食パンを使っていました。
絵を学ぶということが初めてだったので、とても新鮮でした。

その教室は、家から電車40分と歩き30分の道のり。
父は自家用車に乗らない人だったので、自分で通うしかなく、
軟弱な私は、出会う人々の視線に緊張し、疲れてしまい、
たった10回程度通っただけでやめてしまいました。

その時の先生には、申し訳ないと思っています。

高校生活は、それなりには、楽しんでいたと思います。
文化祭などでは、絵を描く役割があると、
喜んで描いていたいた記憶があります。

ただ、相変わらず、勉強への情熱は沸いてきませんでした。

鉛筆デッサン 15歳ごろ



高2、16歳ころのデッサン
普通の画用紙に、鉛筆
講師の先生から出された宿題

手袋とウィンターシューヅ


47年ぶりに
納戸の奥から出して並べてみた。
なつかしい。

保管するなら、カルトンなどに挟んでおいたほうが良いですね。
紙袋に入れて、本棚に立てかけてあったので、紙が寄れてしまっています。


鉛筆デッサン 15歳ごろ

ビンとパン

フライパンと野菜

鉛筆デッサン 15歳ごろ

魔法瓶と紙袋とミカン
一升ビンと牛乳ビン

荒い鉛筆線でも物質が構成できるのが面白くて(特に左側)、わざと目を粗くした。

先生の言葉。『いいんだけどね~、線の使い方をもう少しやさしくした方がポットが喜ぶんじゃないかなあ

思春期の生徒に、気を使ってくれたのがわかった。

担任の先生に勧められて、美大へ進む

  
進学校では、試験で赤点をとるような私のような存在は、
ほとほとやっかいな生徒だったと思います。

そして進路を決めなければならない段になり、
先生から勧められたのは、新しく開校して間もない美術短大。
なんと、実技だけの入学試験とのこと。

美大へ入るには、実技試験対策として、デッサンを
習得するためにデッサン教室へ通うのが一般的。

私といえば、デッサン教室へは、過去に10回程度通ったのみ。
それでも、受験してみようという気持ちになりました。
おこがましくも、なんとなく、描ける気がしたのです。

そして、漠然とした希望を持ちました。

高校の3年間は、「自分は劣等生」という自覚を持っていたので、
まさに救っていただきました。
先生のクリーンヒットでしたね~!

何をしたいの?描きたいの?親元離れて知った世界

  もうお気づきかと思いますが、
ここまでの私の行動に疑問を感じませんか。

常に外側からの勧めで行動を決めていく、という流れです。
主体性が弱いですよね。自分のパッションによって
行動を決める、という場面があまりないのです。

そして、晴れて画学生となったのにもかかわらず、
本業の他に、別の方面に興味関心を持ってしまう、
またもや想定外の行動をしてしまいました。
なんてこった。

同じ敷地内に、音楽大と社会福祉大学が同設。
キャンパス内でギター片手に歌を歌っているグループの活動に
ひかれてしまったのです。

世間知らずだった私は、そのグループに関わることで、
色々な思想について知ることとなりました。

戦争、福祉、右翼左翼の思想
社会的に虐げられている人々のこと。

障害者施設で暮らす子供たちと接したり、
歌で思想を伝えるということをしたり。

たくさんの学びを得ることができましたが、
絵にかける時間を減らすことになりました。

どれほどかというと、
短大なのに、単位が取れなかった分、卒業に3年かかりました。
余計な出費と落胆をさせて、
両親には、本当に申し訳なく思っています。

もちろん、高校の先生にも。


ところで、私は、日本画コースを選びました。
デザインコースよりは、絵画コース。
油絵よりは、水を扱う日本画かな、という消去法です


日本画については、胡粉や岩絵の具の扱いは初めてで、
時間をかけて画材に向き合うという、
歴史を感じる懐かしいような時間があることを知りました。

子供のころから、日展や院展など何度も観ていましたが、
実際に手に取るまでは遠い世界だったんですね。
日本画といわれるのに、日本人として、
あまり知らない、なじみがない、というのは意外でした。

女性として家庭に入るという意味について悩む日々

  
とうとう日本画のみに集中することなく、短大を卒業。
すぐに就職することもせず、フリーターになりました。
良く言えば、いろんな世界を知りたいという好奇心のため。

何回かグループ展などは経験をしましたが、
現実的にいきなりプロになるという
イメージや欲をそもそも持っていませんでした。

「いつか、納得のいく絵を描けるようになりたい。」
欲といえば、そういうものでした。
もっと、時間をかけて成長できるものだと思っていた
し、
肩書はなくても、絵は描いて当たり前と思っていたからです。

自由を謳歌していた私は、
雪山の絵を描きたくて、企業の高原保養所でのアルバイトで
ワンシーズンこもったり。各所にスケッチ旅行に出かけたり。
マイペースで絵に向えること自体、幸せなことでした。
それがどれほど貴重なことだったのか、後に思い知ることになります。


活動の収入源としても、知見を広めるためにも、
アルバイトを続けていましたが、
友人はどんどん結婚していき、自分の身の振り方も考え直しました。
きちんと就職しようと思い、設計会社で2年間働きましたが、

その間に、ご縁があり、結婚をして家庭に入りました。
そうこうしているうちに子供が生まれ、
子供中心の生活になりました。


家族のための安全安心な衣食住について勉強をし、
生活に密着した生協活動や環境啓発グループの活動もしました。
それに必要なイラスト、チラシ、ポスターなどなど、
私の「絵しごと」は、ほとんど「ボランティア活動」でした。

それは、恵まれた生活であったがゆえにできたことですが、
満足していました。なぜなら、社会のために貢献している

という充実感があったためです。

その活動に熱心になるほど、自由な発想の「芸術絵画」
を描くことは、「贅沢なこと」として自分の中に追いやっていきました。


みんなのため、子供のため、家族のため、地球環境のためという
条件付きのものしか描く意味がないと。

本来、「描きたいテーマを描く」という
自分を表現することが、できない。
本当に描きたいものの視点を「少しずらす」ようになりました。

なぜなら、遊んで暮らしている、と、
軽蔑されているような空気の中にいたからです。
夫からは、『好きなことができていいね(俺は、働いているのに)』
という言葉を夫に言われていたからです。

実は、絵を描くこと自体、夫に隠れて描くようになっていました。

絵は、自分と静かに向き合う大事な時間のはず。
それが、罪悪感を感じながら、しかも、「ずらして」描くということ。

最大の難点は、自分の非常事態を夫に告白できなかったことです。
それは、長らくDVの影響を受けていたことに起因していました。


大事なものとの別れ=2度の強制終了を体験

  
詳しくは書けませんが、葛藤の末、
私は、夫とも向き合うことができず、
とうとう、自ら離婚の道を選んだのです。

自ら選んだとはいえ、
子供を手放すという条件をのんでしまったために、
精神的に相当のダメージとなりました。
これからも完全に消えることはないと思っています。

とにかく、自立して生活していかなくてはなりません。
まずは、生活の安定のために、乗馬クラブで働き始めました。
気持ちのリフレッシュのためにアルバイトをしていた場所です。
(その頃、落馬して、利き手の右手首を複雑骨折し、
少し不器用になりました。)

いつか心ゆくまで馬の絵を描いてみたいと思っていたので、
興味津々。動物好きもあって、楽しい仕事でした。。。
と、書きたいところですが、ダメージが消せず、
内面は、常に浮遊していた感じです。

その後、この乗馬施設の廃業に伴い、業務を一部引き継ぎ、
個人事業主として、馬と関わる仕事を続けることとなりました。


そして、毎日の忙しさもあり、相変わらず、
真剣に絵に向き合う時間と気持ちのゆとりを持てませんでした。


そして、、、馬を預けていた牧場が閉鎖することになり、
10年間続けた仕事を 突然、失うことになりました。
強制終了です。

またもや、大事なもの、
ずっと一緒にいられると思っていた馬を手放すことになりました。

しばらくは、放心状態でしたが、
自分の生きている意味を知りたくて、
たくさんの本を読み、瞑想やスピ系講座も受けました。


至った考えは、
生まれてきたのは、自分の感動を表現するため。
今生、生まれてきたのは、地球と宇宙の調和を図るため。

少し、突拍子もないことに聞こえるかもしれませんが
慎重に考えての答えです。

これ以上、自分の内面から逃げてはいけない、
という天の声のように感じました。
大げさに聞こえるかもしれませんが、私には、そう思えたのです。

これを機に、やっと、絵に向かおう
という気持ちが自然に芽生えてきました。

真正面から取り組まず、苦しかったんだと気づいた今


少なからず、親から影響を受けて育ちます。
その影響の善し悪しは、受ける側の受け取り方次第だと思うんです。

(一説には、親を選んで、生まれてくるということだし)

私の場合、世間に対し、自分は、「良い子」でいるかな?
という視点で生きてきたのかなと、振り返っています。


また、捕捉で書き加えると、、2歳の頃、命に係わる病気にかかり、
大きな手術を受けたことがあったそうです。
『命さえ助かってくれればいいから、助けてください』
と神様に祈ってくれたに違いありません。

だからか、ほめて励ましてくれた記憶が多いです。
過干渉とまでは思えませんが、
甘やかされていたということなのかもしれませんね。

ぬくぬくとした中で暮らせた半面、
主体性のない面も助長されたのかもしれません。
反骨精神というか、それが足りない自分を感じます。

なので、高校受験では、目的もないのに、自分に合わない勉強に没頭し、
入試では、自分に才能がないと判断し、勝手に傷ついてしまった。
自分はもっとできると思っていたのに、そうではなかった。
…それはそれで受け止め、自分の領分を広げていけばよかったんです。

まあ、この時は、精一杯だったのでしょうから、
もう、自分を問い詰めたりしませんが^^
このことは、その後に大きく影響しました。

良い子」から転落し、「劣等生」にまでなったのだから。
褒められることが多かったのに、現実は、そうではなかった!

「自分はダメな奴だ」と、「自分はもっとできる」との
攻防戦で、前者の印象を強く抱いてしまった。。

せっかく画学生になったのに、社会に対する見識が浅すぎて、
もっと、視野を広くしなければだめだと、描く資格がない、
とまで思っていました。

結婚しても、問題をだれにも相談できず、ついには、逃げ出してしまった。
自分勝手な判断ゆえに、自分も周りも深く傷つけてしまうことに。
その後も、突然の失職を経験。


さんざん反省をして自分を責め続けてきたので、
もう、前に進まなければと思います。

自分の命よりも大事だと思っていた子供とは、
細い糸でつながっていますし、
手放した馬には、こっそり会いに行くこともできます。
別れた夫にも、馬の仕事をさせてくれた人にも感謝しています。
そう、関わってくれたすべての人に、感謝しています。
なので、今、私が、できることといえば、
「みんなの幸せを祈ること」

祈りを乗せた絵を描くことは、自分の生きがいでもあります。
前にも書きましたが、

生まれてきたのは、自分の感動を表現するため。
今生、生まれてきたのは、地球と宇宙の調和を図るため。

懺悔しているばかりではなく、

祈り、素直に感動し、絵を描いていく姿を 
両親やご先祖様も自分のよろこびとして、
見守ってくれると思っています。

悩み続けているときに、自分のルーツ、日本の成り立ち、
日本人の信仰心、日本の歴史、について勉強し直し、感動しました。
「日本」をテーマにしていこうと思っています。


こうして、あらたに絵に向き合い始めた私です。

まとめ


ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

順風満帆ではない人生を歩んできましたが、
最後は、ハッピーエンドにしたいと思っています。

それには、きちんと自分に向き合う時間を持つことが大切です。
私の場合、思いを絵に乗せられるようになることは、
何より大切なことです。

私のように、いろんな理由で、絵を描きたくても
素直に向きあってこれなかった人。いらっしゃいませんか?

年を重ねるごとに、日本の良さに感動している人、
いらっしゃいませんか?

心の根底にある、愛と調和を表現したいと願っている人、
いらっしゃいませんか?

絵の先生として指導は、とても未熟でできませんが、
自分が得ている知識であれば、アドバイスできるかもしれません。

共に学んでいければと思います。

成長し続けようとする姿を
ここに記録していこうと思います。
よろしければ、また見に来てください。ありがとうございました。