日本画家【伊東深水】浮世絵、美人画「歴史の流れ」をたどってみる!…著作から日本画を学ぶ⑧「美人画の描き方」第10章 美人画小史(まとめ)

花下遊楽  長信
花下遊楽  長信

    初期浮世絵」 肉筆「美人画の始まり」  安土桃山時代~

    わたし

    伊東深水先生の「美人画の描き方」最終章、
    ≪第10章 美人画小史≫
    という、まとめです。


    「美人画」として確立していく流れを
    深水先生の視点で紹介しています。

    難しい漢字だらけで、昔の日本人は、
    すごかったんだなあと、つくづく実感です。


    また、初めて知る絵師の名前もありました。
    絵を描くものにとっては、理解度が増し、
    絵の見方に深みも増すので、指南書としては、
    ありがたいものですね。
    私も勉強を深めていきたいと思います。


    深水先生の活躍された時代を感じることも
    今回の目的でもあり、そのまま参考図も載せましたが、
    やはり、モノクロは、じれったい感があります。
    ここで知った絵師、作品については、
    最近の図録などで、観ていくようにしたいです。
    (なるべく挿入しました)


    ただ、このご著書を手にした当時の画学生が、
    食い入るように見つめただろうことを想像すると、
    味わい深いです。

    では、さっそく。

    初期肉筆浮世絵 「美人画の始まり」  安土桃山時代~



     「浮世絵版画」の前は、「肉筆浮世絵」であって、
     一つの主題「美人画」として独立した時期とは・・・
     
    室町幕府が滅亡した後、織田豊臣の政権となる安土桃山時代(1573年)
    から江戸開府(1603年 、慶長8年)~江戸時代初期(寛永1624年~1644年)

    その約30数年に作られた作品を一般に「初期浮世絵」と呼ばれている。
    「版画浮世絵」が江戸初期(寛永)に起こるまでの間のこと。

    このころの多くは、豪華な金地の屏風に極彩色。
    婦女遊楽の群像の題材が多かった。

    版画時代に近づくにつれて、画面が小さくなり、
    その多くは、掛幅(掛け軸)となり、
    構図は、一人立ちになっていった。

    京都が中心であったが、多くの作品は、落款らっかんを押してない。
    よって、作者の名前がわからないものは多い。

    画風は、狩野・土佐の系統をひいているが、
    大方は、独自の形式を生んでいる。
    肉筆ゆえに、画学生には、大いに参考になる。

    初期の名作としては・・・


    狩野秀頼(享年不詳) 「高尾観楓図かんぷうず屏風」挿絵あり
    狩野長信 (享年77歳)花下かか遊楽図屛風」 挿絵あり

    中期 江戸時代初め(慶長1596年~元和1624年)特記すべきは・・・


    *岩佐又兵衛またべい勝以かつもち( 天正 6年1578年 ~慶安 3年 1650年 享年73歳)
    *彦根屏風 挿絵あり
    *機織図屏風
    *遊女舞楽図屛風
    湯女図ゆなず屏風 
    *舞踏図屛風 挿絵あり

    どれも、市民のはつらつとした風俗を良く表している。

    踊  作者不詳
    踊  作者不詳

    浮世絵版画が盛んになる 江戸初期~

    岩木つくし  師宣
    岩木つくし  菱川師宣

    初期浮世絵師 菱川師宣の木版画を芸術に押し上げた功績


    菱川師宣(寛永15年1639年~正徳3年1713年享年77歳)は、
    晩年、円熟した筆彩で多くの肉筆美人画を残したが、
    特記すべき功績は、原始的だった木版画を独立した芸術にまで
    推し進めたことにある。

    一枚絵もあるが、挿絵本、絵本などの作品が多い。
    撲茂簡素(シンプル)な線で婦女の抒情を良く映している。挿絵あり

    肉筆浮世絵師 西川祐信の京都での活躍


    西川祐信(寛文 11年 1671年 ~寛延 3年1750年 享年81歳)は、
    版画の中心が江戸だった時、京都で、絵本類に不朽の作品を多く残し、
    次代の浮世絵師たちに大きな影響を与えた。
    祐信の描く美人画は、衣装図案の変化に富み、優雅。挿絵あり

    絵本ときわ草  祐信
    絵本ときわ草  西川祐信
    柱時計美人図  西川祐信

    柱時計美人図  西川祐信

    この作品では、行灯(あんどん)の明かりのもとで、娘が時計の分銅の紐を結んでいます。紐の先についた錘(おもり)が動かないように、つまり時計が進まないようにしているようです。時計の針は、そろそろ眠りにつく時刻をさしています。時が来れば帰ってしまう恋人を想う娘の気持ちが伝わってきます。時計のモチーフは浮世絵にも多く登場しますが、単なるインテリアではなく、「誰かと過ごす時間」や「その時間の終わりを惜しむ気持ち」を表すことの多いアイテムでもあります。これは肉筆といわれる、一点ずつ手で描かれた浮世絵です。作者の西川祐信は、京都で活躍した流行絵師で、肉筆画を多く手がけていました。せつない女性の心情に加え、美しく彩色された着物の繊細な文様や、ふくよかで気品のある人物の描写にも注目してください。

    出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)

    その他特記すべき浮世絵師



    *奥村政信(貞享 3年 1686年 ~宝暦 14年 1764年 享年79歳)挿絵あり
     菱川師宣、鳥居清信の影響を受けながら、独自の美人画、役者絵を描いた。
     俳諧を掛詞や比喩を用いたユーモラスな句調を特色とする俳人でもある。
     浮世草子、草双紙の挿絵、美人画の他、一枚摺の役者絵、風景画、武者絵、
     花鳥画と、多様な分野に活躍、相当な量の紅絵、漆絵を残した。


    *石川豊信(正徳 元年 1711年 ~天明 5年 1785年 75歳)挿絵あり
     雅号をいくつも持つ(糠屋七兵衛、咀篠堂、秀葩、西村孫三郎、西村重信など)
     肉筆浮世絵、漆絵、紅摺絵の役者絵、美人画の秀作を残した。
     その作風は優美で華麗なもので、後の鈴木春信、北尾重政にも影響を与えている。
     欅の板などを使い、その木目を版の余白などに摺り写す「木目摺り」を創案した。


    *鳥居喜満( 享保 20年1735年 ~天明5年1785年 享年51歳)
     役者絵、美人画、また青本、黄表紙など草双紙(娯楽本)の挿絵、
     番付絵、芝居看板絵、肉筆画、あぶな絵を描く。
     紅摺絵に秀作があるが、四色以上の色を用いた多色の一枚絵も残している。

     
    *宮川長春 (天和2年 1682年~宝暦2年 1752年 享年71歳) 挿絵あり
     肉筆画専門の絵師で、艶麗で気品ある美人画を得意とした。
     庶民風俗、遊里風景、遊女、陰郎、若衆などを描いた作品も見られ、
     春画も多い。高価な絵絹の作品が残っていることから、
     支持者はやや富裕な町人か武家だったと考えられる。


    *勝川春草 
    (享保11年1726年 ~寛政4年 1793年 享年67歳)挿絵あり
    役者絵では役者個人の特徴を捉えた似顔絵風作画の先鞭をつけ、
    肉筆の美人画でも細密優美な作風で高い評価を得た。
    鳥居派の役者絵とは異なる写実的でブロマイド的な役者似顔絵を完成させ、
    大衆に支持された。


    *懐月堂一派
    (安度、度繁、度辰など) 挿絵あり
     菱川師宣を起りとする菱川派に替り、江戸で宝永から正徳の頃にかけて
     安度を中心に一世を風靡した浮世絵の一派。簡約で大胆な描線に豊麗な着色。

    「遊女立姿図」懐月堂度繁筆 紙本着色 江戸時代・18世紀 
    「遊女立姿図」懐月堂度繁筆 紙本着色 江戸時代 出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)

    浮世絵版画の技術の変遷

    版画の発達は、物語の挿絵や絵本などから、墨摺りの一枚絵に移り、
    次に手彩色して、丹、黄などの単色を施した「丹絵」となり、
    また、丹に代わる紅殻を施し、ほかに黄・緑などを手彩色をして
    紅絵べにえとなった。

    また、「紅絵」の髪や衣装の墨摺りの部分に、漆または、膠を引いて、
    これに光沢を与えた「漆絵うるしえなどの経過を経て、ついに、
    紅、黄、緑などの数色を摺刷すりさつし得るに至った。
    これを紅擦絵べにずりえという。


    この時期に活躍した絵師には、菱川師宣、以下、鳥居喜満に至るまで。
    明和初年1764年か鈴木春信らによって、多数の色を摺刷するほかに、
    「拭きぼかし」「カラ刷り」「キメ込み」などの技術に至り、
    東錦絵あずまにしきえ」が出来上がり、世界木版画史上、大いなる光輝を遺すことになった。

    浮世絵版画の全盛期=三大家

    浮世絵 全盛期の三大家とは・・・
    鈴木晴信
    鳥居清長
    喜多川歌麿


    鈴木春信
    (享保10年 1725年 ~ 明和 7年 1770年 享年46歳)
    西村重長の門人。暦の刷り物の改良をし、
    木版摺刷を飛躍させた。近所には平賀源内が住んでおり、
    友人として親しく、共に錦絵の工夫をしたという。
    鈴木春信の描く婦女は、童心の象徴のようで抒情的詩美。
    摺刷の大成によって、背景の色や表現が自由になった。



    鳥居清長
    (宝暦2年1752年~ 文化12年1815年 享年64歳)
    鳥居清満の門人。鳥居家4代を継いで
    芝居看板絵を描いたが、基本は、版画の美人風俗画にある。
    写実的で健康美の象徴である。描線が、優麗にして粗野にならず、
    画面は整制されて、背景もよく引き立ている。



    喜多川歌麿
    (宝暦3年1753年 ~文化3年1806年 享年54歳)
    鳥山石燕とりやませきえんの門人。早くより、黄表紙・
    洒落本等に筆を執ったが、天明寛政の頃には、技が円熟して、
    版画美人画・大首もの等に多くの傑作を遺した。
    美人画の他に「絵本虫撰みむしえらみ」「絵本汐干のつと」など、いわゆる
    図鑑を描き、並々ならぬ写実力を示している。


    その他、特記すべき優秀な絵師たち


    *磯田湖龍斎(享保20年 1735年~ 寛政2年 1790年 享年55歳)
     柱絵という細長い絵を得意とした。

    窪俊満くぼしゅんまん(宝暦7年 1757年~文政3年 1820年 享年63歳)
     文学にも親しみ、狂歌摺物や版本の作画に活躍したほか
     沈金彫りや貝細工などにも長じた多芸。狂歌摺物が得意。
     肉筆浮世絵が多い。紅嫌い

    細田栄之ほそだえいし(宝暦6年1756年~ 文政12年 1829年 享年74歳)
     江戸時代後期の浮世絵師     挿絵あり

    風流七小町  栄之
    風流七小町  細田栄之

    頽敗たいはい期の作品・・・とは!


    この段になり、突然とも思える、
    眼を疑いたくもなる表現が出てきました。
    ここに書くのも、はばかられますが、
    元の文章は次のとおりです。


    徳川末期に及んでは、
    歌川国貞、菊川英山、菊川栄泉等がある。
    いわゆる、
    おとこだて」なる当時の婦女の一面を写してはいるが、
    すでに頽廃期の作品にして
    また、前代大衆の気品風格は見るべくもない。

    (第10章 140頁から引用)


    *歌川国貞(天明6年1786年~ 元治元年1865年 享年79歳)
    *菊川英山
    (天明7年 1787年 ~ 慶応3年1867年 享年80歳)
    *菊川英泉
    渓斎けいさい英泉のこと?)(寛政 3年 1791年 ~ 嘉永 元年 1848年 享年57歳)

    私の勝手な認識としては、このお三方は、
    どこかで見聞きしたことのある、有名な浮世絵師
    ということしかなかったのですが、

    『「侠」なる』ということは、
    歌舞伎という世界観を指摘していて、

    役者絵のマーケットを揶揄している?
    ということではないかと思いました。
    「美人画」と同じ土俵にあってよいものかと。


    画面の向こうにいる
    実態のある女性のたたずまいを大事にした
    深水先生のつぶやきなのでしょうか。
    この見方の正否はわかりません。
    別の文献で調べてみたいと思います。

    扇の的  国貞
    扇の的  歌川国貞
    絵を描く美人  英山
    絵を描く美人  菊川英山

    美人画以外では、このお三方が素晴らしい!

    そして、
    歌川豊國とよくに葛飾北斎、安藤広重については、
    美人画に手を染めるのは致し方ない。
    それは、
    強い個性と厳然とした才能と仕事量があるからだ!と、
    援護射撃しているかのようです。


     マーカーは深水先生の表現です。

     このお三方も、美人画を描いているが、
     『浮世絵の本流は、美人画にある、といっても過言ではない。』

    *歌川豊国(明和6年1769年 ~文政8年1825年1825年享年57歳)
     役者絵の名を遺した

    *葛飾北斎(宝暦10年1760年 ~嘉永2年1849年 享年90歳)
     画狂人をもって自ら許した

    *安藤広重(寛政9年1797年~ 安政5年1858年 享年62歳)
     風景画の名手

    明治時代は、浮世絵版画の末期、そして、美人画の萌芽へ

    『明治期に入ってからは、美人画における優秀な作家は乏しい。』
    と手厳しい。

    『さしも長くこの華やかなりし歴史を誇った錦絵版画は、
     徳川幕府の崩壊とともに衰退して、
     美人画は、再び純正芸術としての肉筆に
     復活すべき萌芽が次第に台頭しつつあった。』

    肉筆浮世絵の地位向上へ 美人画の確立 月岡芳年 水野年方

    月岡芳年  東京国立博物館蔵

    月岡芳年と水野年方は、美人画の専門の作家ではない。
    けれど、今日の美人画を過去につなぐ画人として、

    特に、水野年方氏は、
    当時、一般から軽視されていた浮世絵美人画家の地位
    純正芸術家としての地位にまで向上せしめた
    作家として
    また、わが師、鏑木清方先生の師として
    忘るべからざる画人である
    。』

    月岡芳年よしとし

    月岡芳年よしとし(天保10年1839年 ~明治25年1892年 享年54歳)

    『歌川国芳の門人。徳川版画家の生活態度を喜び、
     朝湯の浴槽に清元の一節をうなり、てん屋の盤台を
     画室に運ぶ幕末戯作者風の生活を好んだ。
     そこに、この画人の本領があったのである。』

    『彼の作品は、むろん錦絵版画に多く、その画風は、
     師、国芳に似て、写実的にして活動せるものをよろこび、
     武士、美人、歴史、書、市井風俗などすべて
     彼の画題に上った。』

    彼は、実に錦絵版画の殿将でんしょうとも称すべき画人である

    水野年方ねんほう

    水野年方(慶応2年1866年 ~明治41年1908年 享年43歳)

    『月岡芳年の門人。初期においては、多く木版美人画および
     新聞雑誌の挿絵に筆を染めた。』

    『画風は、芳年に比してはなはだ穏健である。』

     『明治30年頃より多く肉筆掛け軸などに筆を執り、
     また、日本美術院をはじめ各展覧会の審査員として
     純正芸術蚊家としての地位を獲得し、
     かくて、氏の門下からは、多くの美人画家の秀才を
     純正画壇に送り出すに至った。』

    純正芸術としての美人画を引き継ぐ画家たち

    鏑木清方かぶらききよかたはその一人。
    他に、池田輝方てるかた池田蕉園

    池田輝方(明治16年1883年 ~ 大正10年1921年 享年38歳)
    池田蕉園(明治19年1886年 ~  大正6年1917年 享年33歳)
    などこれらの画人は、多く大正期において若干の美人画の
    優作を遺している。

    髪 2曲1隻 池田蕉園 東京国立博物館蔵
    髪 2曲1隻 池田蕉園 東京国立博物館蔵
    髪 2曲1隻 池田蕉園 東京国立博物館蔵
    髪 2曲1隻 池田蕉園 東京国立博物館蔵

    わが恩師、鏑木清方

    『現代の作家として、また、古今、美人画家中の偉傑としては、
    実にわが恩師、鏑木清方先生がある。先生の人格、画境、業績
    嘱目に至っては、あまりに顕著なる事実で、あえてここに
    喋々することを要しない。』

    『今や、先生の門下は、多士済々たるものがあり、
     美人画の前途は、実に洋々として、
     次の時代に数位するのである。』

    「 築地明石町」鏑木清方
    「 築地明石町」鏑木清方

    最後に、伊藤深水が、師匠の絵「築地明石町」に寄せて

    秋の初めのうすら寒い明石河岸を背景として、
    お召しの単衣に黒ちりめんの羽織…

    そうしたものに装はれる中年の美人を描いて、
    明治中期の時代相を映し出したところに
    画因があり、

    またそこに、他の追随を許さない先生独特の叙情詩美がある。

    わたし

    これで、伊藤深水先生の「美人画の描き方」はおしまいです。

    最後は、恩師に対する思いとともに、
    決意のようなものが感じられましたね。

    そして、激動の時代に移っていくわけです。
    臨場感も感じられました。



    率直な感想は、、、
    話がちょっとそれますが、
    漢字やその熟語が旧字体で難しくて(汗)
    一つ一つ意味まで調べて、読むのに苦労しました。


    多くの漢字を使い分けていた時代があり、
    その一つ一つに意味があり、、。

    更にそれを毛筆で書いていた日本人。おそるべし!

    筆が達筆になって、その腕で絵を描くのだから、
    そりゃ、線に魂が込められるすごい力量!と思いました^^

    ぴーちゃん

    これから、筆使いの練習だね~!
    がんばれ~~

    わたし

    がんばりまあす^^


    さらに加えると、
    「伊東深水」という画家の絵は、
    その名前が有名すぎて、
    「完成作品」として鑑賞するばかりでしたが、


    一枚の絵を作り上げるのに、熟考し、何度も筆を運んだ様子を
    思い浮かべられるようになりました。


    生い立ちや、苦学した少年時代、については、
    知らなかったので、知るきっかけになって
    本当に良かったと思います。


    娘さんは女優の朝丘雪路さんということも有名ですが、
    「美人」を見る目は、
    常にプロとしての視線が注がれていたのだろうな、
    と思います。
    自慢の娘さんだったでしょうね。


    絵の好きだった私の父の蔵書の中に 
    たまたまあったわけですが、
    出会えてよかった1冊です。