【日本絵画の伝統色一覧~江戸まで】歴史を知ると面白い日本の色彩事情

    こんにちは、日本が好きなAkiです。

    日本は、皇室が代々続いていて、世界で一番長く存続している国です。

    ご存じでしたか?
    残念ですが、昨今、
    知らない日本人が増えているらしいんです。


    少なくとも1500年以上
    あるいは、初代の神武天皇が即位した時を発端とすると、
    2,685年以上、続いていることになります。


    大国アメリカでさえ、建国約250年ということを思うと、
    日本が、いかに古い国かと感じ入りますね。


    その日本は、海に囲まれ、四季があり、湿潤な気候で、
    綺麗な水源と緑が豊富。

    国土全体を 龍の形に例えられ、神秘的です。


    山々は複雑に入り組んでいて、
    流れる川がつくる樹枝状の土地が広がっています。


    人々が田畑を作り始めてからは、
    耕作できる地面を人の手で改良し、増やしながら、
    寄り集まって、共同体をつくり暮らしてきました。


    自然と向き合って暮らしを作っていく。
    日本人の気質とともに、日本の風土は、長い時間をかけて、
    形成されていったのです。



    また、別の面からみると、日本人は、
    日本人特有のヤップ遺伝子を持っています。
    その争わない穏やかな性質を日本人はもともと持ち合わせていた
    ということが言われています。


    日本の八百万の神々を見出すことができたのも、
    そんな日本人の性質があり、
    また、素晴らしい自然にも恵まれて、それに呼応するように、
    精神性を大事に生活してきたからに違いありません。


    現代まで脈々と続いている日本の文化思想を
    これからも大事にしていきたいなと思えてなりません。



    今回は、そんな日本で、古くから使われてきた色の世界を
    手繰ってみたいと思います。

    Contents

      【古代の色の認識】古代人は、色について、何を感じてきたんだろう  

    日本の伝統色とされる色は、ざっと460種類以上ありますが、
    その発端となる、古代の色は、
    どのように、認識されていったのでしょうか。


    私たちが色を認識できるのは、光があるからです。
    光の加減で、その様子を表現した言葉が、
    今の「色の名前に残っている」というのです。


    まず、日本の色彩感覚のはじまりとされる 4色があります。
     まだ色を表現できなかった時代の日本人は、
    光の感覚で色彩を認識した、というのです。

    古代の色の認識  光を感じ取った4種類の色   明暗顕漠 

    光の感覚を表した言葉が、明暗顕漠(めいあんけんばく)


    めい(赤)夜が明けて空が赤く色づいていく状態。

    あん(黒)太陽が沈んで暗くなった状態。暗黒の世界。 

    けん(白)夜が明けて辺りの光が白くなり、形がはっきりと見える状態。

    ばく(青)太陽が沈み始めて辺りが薄暗くなり、風景が漠然とぼやけて曖昧に見える状態。

    光による認識の違いが色名になった
    状態を形容する言葉として、「あかし」「くろし」「しろし」「あおし」を使い、それが、抽象的な概念を持つ色の名前として残ってきた、といわれています。

    しろ

    Aki

    夕焼けをじっと眺めていた後、振り返れば
    あたりが青くなっていた!
    と感じたことありませんか?

    そして、急に寂しくなっちゃうような感覚。。
    これが、青を寂し気なイメージや、

    冷静さのイメージとして扱われる
    根本なのかなって感じます。

    このように、
    太陽の光がどれくらいあるかどうかで
    見える景色が断然違うってこと、わかりますよね。


    自然と近い暮らし方をしていた古代人の感じ方、
    今の私たちも同じ感覚を持っていることに、
    なんだかうれしく感じてしまいます^^

    古代の色の認識   日本神話の象徴としての色彩配色

    装束の例(民間)

    実際に、古代の4色は、どのように扱われていたのでしょうか。
    文献として残っている4色について、次のように読み取ることができます。


    2色とか、3色とかの組み合わせによって、または、全4色を使って、
    特に、精神性を表す神事で使われていますし、
    日本人の色の感覚に響く色として、
    慎重に扱われていると考えられます。それは、現在も。


    例えば、神道では、神様に奉納する神楽(かぐら)において、
    巫女の衣装は、白と赤が基調。民間の神事においても同様です。

    赤は、生命の象徴。古事記、日本書紀に基づく日本神話の創造神、イザナギ、イザナミ、また、イザナミから生まれた太陽神アマテラスオオミカミ、天岩戸開きで踊るアメノウズメの赤い裳、厳島神社や伏見稲荷、春日大社など、朱塗りの鳥居を象徴する色。

    黒は、闇と神聖の象徴。イザナミが死んだ後、イザナギが約束を破った怒りでイザナミの体に宿った稲妻の色。死の象徴で、闇、冥界を表しています。大国主命(オオクニヌシノミコト)、大黒天の黒。神武天皇を先導したヤタガラスの黒。

    白は、神性を象徴。山の神の化身である白い猪と白鳥、白馬、白猿、白酒など、神への捧げもの色。

    青は、美しい大和の国を象徴する色。古事記に出てくる和歌の「青垣山」を青々とした山並みの美しさを表現。イザナギから生まれたスサノオは、青い海神の支配者。平安初期から続いている白馬節会あおうまのせちえ の読み方。実際には、緑色も含む。

    古代の色の認識   古墳装飾の配色 

    大塚古墳 書籍「日本の配色辞典 城一夫 パイ・インターナショナル」より

    日本全国に約800基ある古墳からわかる色の配色は、材料ごとの次の5色。

    また、ここに、黄色がありませんが、
    一説によると、黄色は、赤の概念に含まれるのではないか、
    ともいわれています。

    装飾古墳の配色

    【各国の色名の数について】


    世界の国々で、多くの場合、黒・白・赤・緑・黄・青・茶・オレンジ・ピンク・紫・灰色という11の色を表す言葉を持っていて、より細かな色を言葉で表現することもあり、これも含めると、大体50~100個ほどがあると考えられているそうです。

    一方、工業化されていない国に住む人々の「色を表す言葉」は、数が少ない傾向で、パプアニューギニアの一部の言語では、色を表す言葉が5つしかなく、黒・白・赤という3の言葉しかない国や地域もあるというのです。

    このように、
    このように、色を表す言葉の研究は、1960年代からなされていて、ある文化で色を表す名前が2つしかない時、それは白と黒。そして、3つ目は赤、4つ目と5つ目は緑と黄色6番目は青で、7番目は茶になるということでした。

    この認識の数でいうと、古代の日本と同等数、4つ「赤、黒、白、青」ということになりますが、4番目が、「」なのでしょう。

    日本らしさは、この「」に特に表れているのかもしれませんね。
    」は、日本では、「」「」をも含む呼び方をしていますね。

    夕陽

     陰陽五行説の色彩・・・黄色の概念が加わり、5色になった

    飛鳥時代(592-710)は、 仏教の伝来した時代です。
    古代中国で誕生した思想、
    陰陽五行思想が、伝わりました。


    陰陽五行思想とは、宇宙は陰陽、
    および木・火・土・金・水から構成されている
    とする考え方です。


    色では、青・赤・黄・白・黒が大切な色とされ、
    特に、黄色の概念が加わったと考えられています。


    陰陽五行説を取り入れているとみられる、
    この頃つくられた古墳内には、
    それまで見られなかった黄色の顔料が
    使用されているということです。

    聖徳太子の服飾制度「冠位一二階」 (一般的に紹介されているもの)

    教科書に載っている聖徳太子の服飾制度・・・冠位一二階 
    階級名〔高⇒低:徳・仁・礼・信・義・智〕

    聖徳太子の服飾制度・・・冠位一二階 これは、本当か?

    中国の五行思想に基づいた色の配置として、
    一般的に次のような順番で色を紹介していることが多いですが、
    あくまでも、後の文献からの類推とのことです。

    あてがわれた色や順番が違うとする「非五行説」もあります。
    また、「」は古代日本で天皇だけが使える尊貴な色と
    定められた時期もあることから、不明な点もあるとのことです。

    【奈良時代】の色彩・・・目を見張るあざやかさ!仏教装飾

    平等院鳳凰堂 参考画像 書籍「日本の配色辞典 城一夫 パイ・インターナショナル」より
     内部CG復元図 /写真提供ABC

    奈良時代 (710-794年)は、
    さらに色の幅が広がり、 仏画製作など盛んになりました。
    それを象徴するのが、紺丹緑紫と呼ばれる色です。

    紺丹緑紫(こんたんりょくし)・・・寺院建築に紺丹緑紫の4色と「金」の五色が用いられました

    繧繝彩色(うんげんさいしき)・・・淡い色から濃い色へグラデーション後、黒で終える配色

    紺丹、緑紫の強いコントラストを和らげるために、
    彩色方法として、色のグラデーションが採用された
    と考えられています。


    前述の画像は、平等院鳳凰堂の内部を再現したものですが、
    他には、四天王寺、東大寺、法隆寺、唐招提寺、平等院
    などの支柱、格天井、壁面装飾などが、


    同様に、紺丹緑紫を繧繝彩色法で彩っていたことが、
    立証されているということです。

    平等院鳳凰堂(復元図)に使われた色彩

    紺丹緑紫(こんたんりょくし)の4色 と 繧繝彩色(うんげんさいしき)の色 
    繧繝彩色 (うんげんさいしき) のパターン
    参考画像 書籍「日本の配色辞典 城一夫 パイ・インターナショナル」より

    飛鳥・奈良時代の色づくり 顔料系 つぶつぶ系

    着色に用いる粉末で、
    水や油に溶けないものの総称を顔料といいます。
    日本画の岩絵の具と同じですね。


    それだけでは、扱いにくく、
    つなぎとめる何か(接着剤や溶剤)を混ぜて使います。


    日本画の場合なら、にかわ です。


    顔料の原料は、植物や鉱物など、実に様々ありますね、
    危険性を伴うものもあり、
    作り出すための苦労もあったと思われます。

    飛鳥・奈良時代の色彩  顔料系 原料

    飛鳥・奈良時代の色づくり 染料系 水に溶けて繊維を染める

    着色に用いる粉末として、水や油に溶けるものを染料といいます。
    自然界には本当に、多様な力が秘められています。
    そのことに気づいた先人たちのすごさを感じますね。

    飛鳥・奈良時代 染料系 原料など
    Aki
    Aki
    Aki
    Aki

    黄橡 平安時代に「橡」の色調が変わってからは、使われなくなったとのことです。

    【平安時代】・・・日本らしさの追求・・・国家による色彩管理

    平安時代(794-1185年)

    さて、ここから、潮目が変わってきたようです。


    平安時代前期の894年に、
    遣唐使が廃止されたのをきっかけに、


    中国(当時の隋・唐)の多大な影響よりも、
    日本らしさを強調する
    「国風化」が進んでいったのです。


    927年に編纂された法令集「延喜式」では、
    日本という国を形どる、
    重要な決まり事が定められました。


    この延喜式は、
    奈良、平安時代の国家制度を知る法典として、
    日本古代史の研究に不可欠な文献です。


    その中には、色に関しての
    厳しい決め事もありました。


    その色彩管理については、宮中の装束の製造を司る
    「縫殿寮(ぬいどのりょう)や、


    多くの技術者を抱えて品質の良い品の製作が求められる
    「織部司」(おりべのつかさ)が設置されました。


    天皇しか使えない色(黄櫨染)こうろぜん 
    皇太子しか使えない(黄丹おうに
    などのように、色に関する管理を詳細に行ったのです。

    平安時代の色彩 禁色(きんじき)と聴色(ゆるしいろ)


    黄櫨染の御袍を召される徳仁天皇  「令和 即位の礼 豪華記念写真集」表紙より一部掲載 

    天皇しか使用できない色などの禁色(きんじき)
    誰もが身に着けることのできた聴色(ゆるし色)を紹介します。

    平安時代の色彩  禁色(きんじき)の種類 

    禁色に対して、誰でも着用が許されていたのが、聴色(ゆるしいろ)です。

    平安時代の色彩  聴色(ゆるしいろ)の種類
    Aki

    禁色があるのは、驚きですが、
    ゆるし色のやさしいこと♡
    ほっこりしますね。

    平安時代の色彩 色の幅がぐんと広がった 一般伝統色

    禁色が指定されたり、
    位によって色が指定されたりする中で、

    否が応でも、
    人々の色に対する認識度が高まる時代でした。

    自然の恩恵によって暮らしていく中で、
    色のわずかな違いを見分け、

    それを再現する技術の向上も
    期待されたのです。

    新しい色目に名前を付け、
    その色が再現できるたびに

    歓喜の声を上げていたに違いありません。

    次に一般伝統色の例を並べます。

    桜色#fedfe1 
    紅染で最も淡い色

    掻練かいねり #e9e1d1
    染める前の生成りの絹を指す場合もある

    十二単に象徴される 日本らしいおしゃれの始まり
    平安時代の配色は 教養を表す身だしなみ 

    十二単
    おひなさまで表される十二単 


    平安時代の宮中の女性にとって、衣装に関する知識は、
    教養のうちだったといわれています。

    十二単は、その教養を生かした、
    宮中の女性の正装のことを指します。


    十二単の色のグラデーションは、
    重色かさねいろ」と呼ばれ、表と裏で布を重ねる場合、


    その色の選び方や重ね方は、
    意識して工夫され、四季の彩を表現していました。


    季節ごとに色の組み合わせが
    決まっていて、組み合わせの名前もついています。


    衿元や袖口には、それが見えて
    とても素敵だったでしょうね。


    その組み合わせの種類は、130種類。
    四季で共通のものは、66種類に及ぶそうです。


    色選びは、心を豊かにしてくれる
    大事な時間だったことでしょう。


    現代にも通ずる、心を癒すカラーセラピー
    の時間だったかもしれませんね。


    下で紹介している色の組み合わせは、
    江戸時代に書かれた文献『重色目』に
    紹介されていた組み合わせです。


    ○春、○夏、○秋、○冬、
    そして○雅という項目もあります。
    特におしゃれしたい時などに装う重ね色でしょうか。


    合わせる色に気を配る、とは、
    細かいところに気を配る、控えめで、
    日本人らしいおしゃれだと思いませんか。

    重色目
    重色 春~
    重色目
    重色 ~春~
    重色目
    重色 夏~
    重色目
    重色 秋~
    重色目
    重色 ~秋~冬~
    重色目
    重色 ~冬~雅~
    重色目
    重色 ~雅
    「重色目」猪飼正彀 [著] 文化14 [1817] 国立国会図書館蔵

    平安時代…延喜式(927年)で示された 冠位の服飾

    冠位は、上位が赤系、下位が青系、という特徴がありますね。
    これは、古代中国の影響が残っている形式とみられています。

    実は、
    『延喜式』に書かれた古来の礼式や作法について、


    徳川八代将軍の徳川吉宗とくがわよしむね(1716年〜1745年)が、
    膨大な費用と多くの人材によって、
    古代の染色の復元に成功したという経緯があります。



    縫殿寮ぬいどのりょうの項に記されている染色法を研究させ、
    古代染色技術の復元を試みたので、
    現在まで伝わっているのです。

    研究をまとめた書物を『式内染鑑しきないそいめかがみ』といいます。

    【鎌倉時代】…雅な公家の文化から、武骨な武士の社会へ移行

    鎌倉時代・13世紀 平治物語絵巻 六波羅行幸巻 国宝 所蔵者:東京国立博物館 
    鎌倉時代・13世紀 国宝 平治物語絵巻 六波羅行幸巻 部分  所蔵者:東京国立博物館 

    またまた、ここから、日本の様子が
    グンと変わっていきます。

    鎌倉時代 (1185-1333年)とは、栄華を誇った平家が敗れ、
    源頼朝が鎌倉幕府を開き、政権が武家へ移行した時代
    です。



    平安京(京都)から鎌倉(神奈川県)へ、政治の中心を移したのです。
    そして、もともと武士は農民の出であったことから、



    貴族よりも庶民に近い考え方があり、
    様々な文化においても広がりを見せることになりました。



    宋(中国)との貿易で影響を色濃く受けつつ、
    武士特有の素朴で力強さに溢れたものが多いです。



    宋からは、禅画や水墨画が伝わり、
    宋の建築様式の東大寺南大門、仏像彫刻の金剛力士像があります。



    文学においては琵琶法師が語った平家物語が有名です。
    前述の国宝 平治物語絵巻 六波羅行幸巻など、
    絵画においても素晴らしい作品が多くあります。

    鎌倉時代の色彩 日本人らしい戦い方は「デザインで主張する」

    意匠を今に伝える端午の節句

    戦乱の世で、悲惨な死が身近にあったことから、
    天台宗、真言宗、浄土宗、禅宗、などの宗教が
    心のよりどころとなり、広まりました。


    精神性を表す色彩感にも影響しました。
    鎧などの色使いにも多くのバリエーションがあり、
    華やかでもあります。


    一瞬、違和感を持つかもしれませんが、
    生死を分ける勝負の多い状況で、
    敵味方に向って、自分を尊厳のある存在として表明する
    ということをいで立ちで表したというわけです。


    具体的には、鎧では、特に肩と腰に当てられる、
    四角い平面的な部分が目立ちますが、
    金属の板を組紐などで編み込み、仕上げてあります。



    肩を大袖おおそで 、腰を草摺 くさずり といいます。
    大袖おおそで草摺 くさずり の構成を「おどし 」といいますが、
    この「おどし 」のデザインが多種あります。


    また、鎧の下に着る服を直垂ひたたれ といいますが、
    これも、色や模様など、変化を持たせています。



    下図の2枚は、鎧の参考図と、平治物語絵巻の部分です。
    図が小さいですが、武士の鎧と
    その下に着ている直垂ひたたれ の様子がよくわかりますか?

    鎧 大袖 草摺 直垂

    大袖おおそで草摺 くさずり の構成を「おどし 」といいますが、
    この「おどし 」のデザインが多種あります。

    (参考画像 書籍「日本の配色辞典 城一夫 パイ・インターナショナル」より)

    鎌倉時代・13世紀 平治物語絵巻 六波羅行幸巻 国宝 所蔵者:東京国立博物館 
    鎌倉時代・13世紀 国宝 平治物語絵巻 六波羅行幸巻 部分 所蔵者:東京国立博物館 

    下図の伴大納言絵巻ばんだいなごんえまき でも、鎧と直垂ひたたれ のデザインの豊かさとともに、
    高位、低位の違いが分かる衣服が描かれています。  


    低位の庶民は、麻でできた直垂で、地味な色です。
    上級武士や、貴族は、夏の間だけ、麻を着たそうで、
    庶民が木綿の服を着るようになったのは、江戸時代に入ってからです。

    伴大納言絵巻(模本)応天門の変を題材にした平安時代末期の絵巻物。これを江戸時代に復元したもの。国宝 東京国立博物館所蔵
    伴大納言絵巻(模本)国宝 部分 応天門の変を題材にした平安時代末期の絵巻物。
    これを江戸時代に復元したもの。
     東京国立博物館所蔵
    Aki
    伴大納言絵巻(模本)

    おまけです。
    絵の中に、こんな人いました。

    履き物を手に履いて逃げる赤い服の人
    赤い服なら、高位の人?
    だとしたら、ですが、
    本性出ましたねって感じでしょうか。
    慌てて走る場面ですが、いつの時代も同じですねえ。上司が慌てすぎ。
    それとも当時の靴の機能性の問題か、宝物だったか。
    (伴大納言絵巻 部分)

    Aki

    伴大納言絵巻は、宮廷画家の筆によるものですが、
    登場人物や馬のそれぞれが、個性的な表情と動きで描かれています。
    筋肉や骨格の捉え方が素晴らしく、生き生きとしていますね。

    【室町時代】…戦乱の中、文化の融合と発展 人々は堅実に暮らしていた!

    室町時代(1336~1573年)の237年間は、
    戦乱の多い悲惨で不安定な時代、
    しかも元寇(大陸からの襲来)もありました。
    そして、次の時代も戦乱は続いていくのですが。


    しかし、そんな折々にでさえ、人々は、
    生きていく価値を見出していったのです。
    なぜなら、商業も工業も芸能に至るまで、
    庶民の間でも発展していったのですから。

    いやあ、人々、けなげ。


    この室町時代の文化の特徴は、
    幕府を朝廷のある京都に置いたことで起きた
    公家文化と武家文化の融合です。


    また、外国(東アジア、明)との交流も盛んで
    大陸文化との融合もありました。


    さらに、京都の町が混乱したことで、
    有力者が地方へ移っていき、地方の発展につながった、
    中央と地方との融合でもあるのです。


    それが現代の日本の文化の基礎
    として残っていて、感動的でもあります。


    文化の変化としては、
    南北朝文化、北山文化、東山文化に分けられますが、


    ここでは、ざっくりと具体例などを列記します。

    【南北朝文化】朝廷が二つに分かれていた頃
    歴史書が多く書かれた(片方の正当性を伝えるため)
    ・軍記物を読み伝える講談師の始まり
    ・公家、武家に関わらず連歌の流行
    ・能楽の始まり(民間の農業神事を発展させた)
    ・お茶を当てる闘茶(賭け事)の流行(茶道の始まり)
    ・枯山水の始まり(中国文化を入れつつ、日本独自に発展した庭園様式)


    【北山文化】将軍 足利義満の頃
    ・禅宗の影響を受けつつ、公家文化の影響を強く受けて優美で華やか
    ・中国文化の輸入(水墨画、建築
    ・建築様式、公家文化と武家文化の折衷(金閣寺
    ・京都、鎌倉に五山文学を設置(寺院管理。朱子学を広めた
    ・能楽、狂言の発展(観世座など、各地で興行


    【東山文化】将軍 足利義政の頃
    ・北山文化を受け継ぎ、禅宗の影響を強く受けた簡素で洗練された深みのある文化へ
    日本建築の基礎を確立銀閣寺書院造:床の間、畳、ふすま、障子の様式)
    ・枯山水づくり(仏教の宇宙観を白砂利や岩で表す庭園)
    ・水墨画(雪舟など)
    ・大和絵(土佐派、狩野派
    ・能面制作
    ・蒔絵技術の発達
    ・茶道の発展
    ・華道の発展(池坊) 

    室町時代の色彩は、質素で艶やかな不思議な世界!?墨と能楽と侘びわびの美意識

    秋冬山水図 国宝 雪舟等楊 縦47.7 横30.2 室町時代・15世紀末~16世紀初 東京国立博物館所蔵 
    秋冬山水図 国宝 雪舟等楊 縦47.7 横30.2 室町時代 東京国立博物館所蔵 

    中国には、水墨画の墨において、「墨の五彩」という言葉があります。
    濃い方からしょうのうじゅうたんせい
    次に示す墨色は、それに該当します。

    上の絵は、雪舟の作品ですが、
    雪舟は、晩年、中国へ渡り、直接水墨画を学びました。
    それまでとは違う、線と面とをデザインした風景画。

    禅僧が描く水墨画は、仏画が多かったのが、
    濃淡の墨を使い、風景画に新たな境地を求めたのです。

    仏教界で広まっていた水墨画ですが、
    同様に、幕府の庇護を受けながら能が盛んになりました。
    まったく違う、絢爛の世界が繰り広げられていくのです。

    現存最古の能装束「萌黄地菱蜻蛉単衣法被(もえぎじ ひしかげろう ひとえ はっぴ)」

    現存する最古の能装束は現役

    能楽協会HPによると、現存する最古の能装束は、「萌黄地菱蜻蛉単衣法被(もえぎじ ひしかげろう ひとえ はっぴ)」で、室町時代後期に、世阿弥の甥の音阿弥が将軍足利義政からもらったもの、今でも特殊演出の時だけ観世宗家が着用しているとのこと。驚きです。過去のパンフレットで紹介されていた写真で、黒っぽく映っている(右手は抜いている)単衣法被です。暗い舞台上で光が当たり、金糸が輝いています。

    観世能楽堂開場記念公演パンフレットより

    生地の拡大写真。萌黄地菱蜻蛉単衣法被は、地の色は深い緑色の萌黄色だったのでしょうか。ひし形の中にトンボの模様を金糸で描いています。トンボは、前だけに進む「勝ち虫」で縁起の良い柄とのこと。

    退紅あらぞめ    #eec9d1

    一斤染いっこんぞめ  #f5b199 

    【安土桃山時代】・・・桃山文化・・・天下人と黄金の時代

    唐獅子図屏風(右隻) 狩野永徳 、狩野常信 桃山時代(16世紀) 紙本金地着色  国宝 6曲1双(右隻)223.6×451.8 皇居三の丸尚蔵館
    唐獅子図屏風(右隻) 狩野永徳 、狩野常信 桃山時代(16世紀) 紙本金地着色 国宝 6曲1双(右隻)223.6×451.8 皇居三の丸尚蔵館 

    安土桃山時代(1573~1603年)は、江戸幕府が開くまでの30年、
    有名な戦国武将、織田信長の時代と豊臣秀吉の時代がありました。

    そして、たくさんの戦と変化がありました。

    一方で、
    戦国時代を勝ち抜いて豊かになった大名が現れ、
    スペイン、ポルトガルとの貿易で莫大な富を得た大商人たちも現れ
    絢爛豪華な文化といえます。


    前述の、狩野永徳 「唐獅子図屏風」など、その頃盛んに描かれた
    金碧障壁画ですが、武将は、を好みました。


    高くそびえる天守閣をもつ安土城大阪城姫路城
    金で飾ったのです。


    例えば、織田信長の建てた安土城では、
    黄金と赤の間」「黄金と黒の間」があり、前者は接客に、
    後者は信長の瞑想に使われていたそうです。


    また、豊臣秀吉の造らせた「黄金の茶室」も有名です。
    室町時代から引き継ぐ、質素な中に美しさを見出す、
    という千利休び茶の美意識とは真逆ですね。



    衣装では、戦いのための武将装束や能装束のデザインが
    とても奇抜で個性的であったりします。

    外国からの輸入品に触れる機会が増えたことで、
    触発され、それを取り込み、
    個性的で新しいものを作り出していったのです。

    安土桃山時代の色彩  立派な姿で圧倒する 武士の理想

    陣羽織 猩々緋羅紗地違鎌模様 じんばおり しょうじょうひらしゃじちがいかまもよう 重要文化財 安土桃山時代・16世紀 裄52.0 丈76.6 戦国の武将小早川秀秋(こばやかわひであき)所用といわれるもので、大胆な曲線裁断と、おおらかな模様が特徴的 

    陣羽織 猩々緋羅紗地違鎌模様じんばおり しょうじょうひらしゃじちがいかまもよう
    重要文化財 
    安土桃山時代・16世紀
    戦国の武将小早川秀秋(こばやかわひであき)所用といわれるもので、大胆な曲線裁断と、おおらかな模様が特徴的。南蛮貿易で輸入された真っ赤な羅紗(らしゃ)を素材とし、鎌の部分は、布をはめ込んでいる(切嵌きりばめ技法)。大胆な配色、奇抜なデザインは戦国武将の衣装の特徴。出典:ColBase (https://colbase.nich.go.jp)

    庄屋

    小早川秀秋といえば、関ヶ原の戦いで、味方を裏切ったことで知られる武将じゃな。どんな心持だったのか、、。派手なデザインじゃな、複雑な気持ちじゃわい

    唐織とよばれる能装束 安土桃山時代・16世紀 豊臣秀吉の家紋でもあった菊桐紋を散らしたデザイン 

    唐織 紅白段稲妻桐菊桜樹模様からおりこうはくだんいなづまきりきくおうじゅもよう

    唐織とよばれる能装束 安土桃山時代・16世紀のもの 豊臣秀吉の家紋でもあった菊桐紋を散らしたデザイン。 この時代の唐織の特徴は、明るい紅、白、萌黄(もえぎ)色などの地に花や木の模様が表されている。

    唐織とは、主に女性を演じる際に着用する表着(うわぎ)のこと。豊臣秀吉より厚い庇護を受けた、能楽の流派のひとつ、金春(こんぱる)家に伝わったもの。出典:ColBase (https://colbase.nich.go.jp)

    うさぎ役者

    能装束は、豪華絢爛!
    贅を尽くした衣装は
    雅な世界そのものじゃ

    胴服 染分地銀杏雪輪散模様 胴服とは、室町~江戸時代初期の武将が、普段着として小袖の上に着用した上衣で羽織の原型 平絹、絞り、銀泥 身丈117.0 裄63.0 袖丈52.0 袖幅22.5 襟幅15.0 安土桃山時代・16~17世紀 東京国立博物館所蔵 出典:ColBase (https://colbase.nich.go.jp)

    胴服 染分地銀杏雪輪散模様どうぶく そめわけじいちょうゆきわちらしもよう 

    重要文化財
    胴服とは、室町~江戸時代初期の武将が、普段着として小袖の上に着用した上衣で羽織の原型 平絹、絞り、銀泥 身丈117.0 裄63.0 袖丈52.0 袖幅22.5 襟幅15.0 
    縫い締め絞りで斜線模様を染め分け、雪輪(はつれ雪)に銀杏文を散らした斬新で大胆なデザイン
    安土桃山時代・16~17世紀 
    東京国立博物館所蔵 出典:ColBase (https://colbase.nich.go.jp)

    庄屋

    武将は、普段着でも粋な召物を着たんじゃな。

    【江戸時代】文化の花が開き 庶民の知恵と 底力はすごかった

    「東海道五十三次之内 日本橋」歌川広重筆。明六ツ[注釈 1]に日本橋を渡る大名行列
    「東海道五十三次之内 日本橋」歌川広重筆。明六ツに日本橋を渡る大名行列 出典: フリー百科事典 Wikipedia
    繁栄の象徴 江戸時代の小判金 出典:ColBase (https://colbase.nich.go.jp)

    いよいよ天下泰平といわれる江戸時代です。
    日本は、長い長い歴史を持つ国、ここまで来るのに大変でしたね!



    戦国の時代を過ぎて、徳川家康は、
    日本全国を効率よく治めるのに、「幕藩体制」を整えました。



    幕藩体制は、幕府と、今でいう「県」の藩を整理し、
    親族の大名を要所に配置するなどして、
    中央からの権力が効果的に行き届くようにしたのです。



    また、鎖国政策によって、海外からの影響は最小限になり、
    日本独自の良さが育ちやすかったのではないでしょうか。


    さらに、
    大名達を1年交代で江戸と領地に住まわせる参勤交代
    建築技術の発展や、交通網の整備、宿場町の発展、
    町文化の流通拡散を果たしました。



    特に、文化面では、
    幕府が取り入れた儒学や蘭学の影響を受けつつ、
    自然科学、医学、天文学などを学びました。



    さらに独自の国学を築き、その学ぶ姿勢は、
    庶民に至るまで根付く寺子屋という仕組みを作り、
    世界に珍しいほどの高い識字率を有するまでになりました。



    さらに、貨幣経済が浸透して、庶民が自ら作り出す、
    生産性のある経済活動ができ、職人技術の向上
    にもつながり、文化はさらに広がりが持てたのです。



    具体的には、歌舞伎や相撲が流行し、
    それを描いた浮世絵などの木版印刷と出版事業は、
    流行をさらに広め、大きく貢献しました。



    特記すべきは、この時期の服装の色彩などの扱いは、
    幕府からの制限によって、条件が加えられたものの、
    それに抵抗するように知恵を使って、流行を生み出していきました。



    それは、次のようなたくさんの試練があった中でも
    何度も立ち上がり、底力を育んできた日本人の強さ
    なのかもしれませんね。


    江戸付近の火山の噴火3回(浅間山2回、富士山1回)
    江戸の火災が200件(小さいもの含めると1800件)
    ・マグニチュード6以上の地震の回数184回
    ・作物が獲れない大規模な飢饉3回
     (一番大きな飢饉では、全国で20万~30万人の死者数)



    それでも、税の取り立てや飢饉で
    庶民の不満が極度に達すると、一致団結、立ち上がります!
    百姓一揆や打ちこわしが勃発!


    打ちこわしは、そのやり方を知ると、
    単に乱暴を働いた、のではないのです。

    お米を買い占めた商家の米蔵を
    力任せに壊すのではなく、柱の組部分を外して倒し、
    後から再建しやすいようにしたというのです。

    そして、お米を盗み出すのではなく、
    床にお米をばらまいて、商品価値を下げさせ、
    安売りする米を買うという流れです。



    知恵を絞りましたね。
    命の尊厳を守るための主張であって、
    恥ずべきことではないと感じています。

    Aki

    ところで、なんと、令和の百姓一揆がありましたね!
    『全国の農家を守ろう!』『日本の食を守ろう!』
    トラクターや人々が、きちんと整列して
    東京でも全国各地でも行進していました。
    日本人らしい平和的なアピールの仕方で、驚きました。(笑)
    お米の流通など、はやく適正になるといいですね!

    それでは、江戸時代を3期に分けてみてみましょう。
    幕府の動き、それに対する人々の知恵、そして何が残ったのか。
    文化の結晶の様子です。

    【江戸前期】家康の盤石の作戦で 社会の基盤づくり、初期設定は良好

    参勤交代
    参勤交代のようす

    政治の主な動き (参勤交代は見栄を切る軍事パレード )地方の掌握、流通などにも貢献


    🎺初代将軍 徳川家康……
    ・1600年、関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利し実権を握る。
    ・1601年、交通制度(東海道の伝馬制度)改革と道路整備に着手
     ⇒情報と物資の流通を効率化させた


    🎺2代目将軍 徳川秀忠……
    ・1612年、キリシタン信仰禁止(奴隷貿易の禁止)
    ・1614年、大坂夏の陣で豊臣氏滅亡に追いやった
    ・1615年7月、大名家を統制するための法律を発布(武家諸法度ぶけしょはっと)以後、江戸時代で5回の改定
    ・1615年7月、朝廷や公家を統制する(禁中並公家諸法度きんちゅうならびにくげしょはっと)制定、「天皇は学問を修めることが第一」と定義
    ・1615年8月、大名の城の数を制限して軍事力を削ぐために「一国一城令」発布
    ・1616年、ヨーロッパ船の寄港地を平戸と長崎のみに限定


    🎺3代目将軍 徳川家光……
    ・1628年、農民の服装規定を定める(麻と木綿と紙のみとする)
    ・1629年、長崎奉行で踏み絵導入。鎖国の開始
    ・1630年、寛永の禁書令(キリスト教関連漢訳洋書輸入禁止)
    ・1631年、糸割符制(江戸・大坂の商人の糸製品の共同購入制度)
          を導入し商業をバックアップ
    ・1633年、寛永小田原地震(マグニチュード7.2程、150人が圧死)
    ・1635年、日本人の海外渡航禁止、帰国禁止
    ・1635年、武家諸法度を改定
    ・1635年、参勤交代制度の導入
    ・1637年、キリシタン大名の一揆がおこる(島原の乱
    ・1639年、ポルトガル船の来航禁止
    ・1640年、幕府、譜代大名に倹約令
    ・1640年、江戸初期最大の飢饉(寛永の大飢饉
    ・1641年、オランダ商館を出島に移し、鎖国完成
    ・1643年、田畑永代売買禁止令。農民の田畑売買禁止
    ・1650年、おかげ参り流行、伊勢神宮へ殺到

    町の衆

    おかげ参り」は、庶民が奉公先から抜け出して、伊勢参りに出かける人が急増した現象で、約60年周期で自然発生的に繰り返されました。3か月から5か月がピークで、1705年、1771年、1830年と続きました。1830年には、日本の人口が3,228万人で、各地からの参詣者数およそ500万人にも及びました。
    初めの頃は、信仰心のためでしたが、次第に旅自体の楽しみや参宮の賑わいに惹かれての旅立ちも増え、経済的に豊かな立場の人々も参宮に加わるようになったということです。経済効果も漠上がりだったそうですよ。パワフル!

    歌川広重「伊勢参宮・宮川の渡し」
    歌川広重「伊勢参宮・宮川の渡し」Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由

    🎺4代目将軍 徳川家網……
    ・1654年改流工事により、利根川が太平洋に注ぐようになる
    ・1657年、明暦の大火、江戸の町が5割以上消失

    江戸わんこ

     この後、たびたび「大火」が登場します。
    江戸時代で、記録に残っている火災件数、なんと1600件!
      その内、大火と云われるのは86件! 
    防火規制が、どんどん厳しくなっていきます。
    火を出してしまったら、なんと死刑に!
    でも、再建時には、材木屋など建築関連業者は、儲かったそうです。。。


    ・1660年 江戸で防火対策のため町屋の建築規制
    ・1665年 諸社禰宜神主法度、諸国の神社の統制が始まる
    ・1671年 河村瑞賢が東回り、西回りの航路を開く
    ・1677年 江戸で踊りを禁止
    ・1678年 江戸で火事多発、失火者は死刑

    町の衆

    おい、庶民には厳しくないかい?
    大丈夫かえ?

    文化的な動き寛永期


    🌸学問…上下の秩序を重んじる朱子学を取り入れた

    🌸建築…寺社建築に権現造りが多く取り入れられた。例)家康の霊廟、日光東照宮
        …数寄屋造りの建築が流行 例)桂離宮の侘び錆を表現した茶室、庭園

    🌸絵画…狩野派 狩野探幽は幕府の御用絵師になった。例)大徳寺大襖絵、二条城の襖絵
        …土佐派 俵屋宗達は朝廷の絵師に。例)「風神雷神図屏風」

    🌸工芸…蒔絵 本阿弥光悦 例)舟橋蒔絵硯箱
        …陶器・磁器 有田焼、薩摩焼、萩焼、平戸焼、高取焼
        …赤絵付け 酒井田柿右衛門 例)色絵花鳥文深鉢

    🌸文芸…仮名草子 教訓や道徳的な内容
        …俳諧の流行 ダジャレの流行

    紫衣事件…色にまつわる事件がありました。(1627年)
    禁中並公家諸法度で許可規定が定められているのにも関わらず、後水尾天皇が幕府の了解を得ずに大徳寺などの僧侶に紫衣着用を許可したことを幕府が違法だと問題にして、これを取り消し、抗議した大徳寺の沢庵らを流罪にした事件です。今でいう、著作権争いのように焦点が厳しかったんですね~

    【江戸前期の色彩事情】 お上と庶民との知恵比べ? 

    尾形光琳 紅白梅図屏風国宝 MOA美術館 
    尾形光琳 紅白梅図屏風国宝 MOA美術館 

    江戸初期は、前の桃山文化から引き続き、
    絵画では、金碧障壁画が多く描かれたり、
    高位の人物の衣装には、金箔や金泥を貼る摺箔や、
    刺繡をする縫箔をして金が多用されました。



    そんな中、「政治の主な動き」で紹介したように、
    武家諸法度の改正などで、衣装についての具体的な規制がかかりました。



    衣装の等級を乱れさせてはならない。
    白地の彩織物は公家以上、白小袖は諸大名以上
    紫袷むらさきあわせ・紫の裏地・練・無紋の小袖は、みだりに着てはならない
    下級武士は絹など気品のある物や錦の刺繍をした服は禁
    農民の服装は麻と木綿と紙のみとする

     作業の過酷さに耐えられるように、耐久性を重んじるにしろ、公家や武家、商人とは、雲泥の差がありますね(涙)
     ちなみに「紙」とは、書き損なったりして不要になった紙(反故)で、衣類の間に綿のように入れる保温用だそうです。

    武家以上の女性は金銀箔や刺繍などが入った豪華な衣服を着飾ることができていた頃、
    農民には厳しい、、、身分差が激しいですね!


    豪商から上の身分で、よく使われた色が次の数々です。

    【江戸中期】 「地震かみなり火事おやじ」対策に追われる政治

    天明の噴火 1783年 浅間山 浅間山の天明大噴火を描いた 「浅間山夜分大焼之図」3/4
    出典: Wikipedia
    出典: Wikipedia
    出典: Wikipedia

    政治の主な動き

    🎺5代目将軍 徳川綱吉……
    ・1685年、生類憐みの令を発令(厳しい規則)⇒大きな犬小屋を建て保護など
    ・1688年、美服禁令
    ・1690年、林羅山の私塾、綱吉の命により湯島に移転(湯島聖堂)

    湯島聖堂 学び舎の様子

    聖堂之画図  せいどうのえず  菱川師宣筆  江戸時代・元禄4年(1691) 95.6×86.9 所蔵者:東京国立博物館
    聖堂之画図 部分 せいどうのえず 菱川師宣筆   江戸時代・元禄4年(1691) 95.6×86.9 所蔵者:東京国立博物館


    ・1704年1~2月、浅間山噴火
    ・1704年2月、時局風刺の小説、狂歌を禁止
    ・1707年、富士山が噴火(宝永の大噴火)
    ・1708年、京都で大火災、13000戸焼失

    🎺6代目将軍 徳川家宣
    ・1709年、生類憐みの令廃止(捨て子対策や動物保護に関しては引き続き行われた)
    ・1715年、正徳の治…朱子学者の新井白石を徳川家宣が幕閣に登用

    🎺7代目将軍 徳川家継
    ・1718年、通貨統一を強行

    🎺8代目将軍 徳川吉宗……
    ・1716年、「享保の改革」経済を発展させた(三大改革の1回目)
    ・1720年、キリスト教以外の洋書の輸入を解禁
    ・1721年3月、江戸大火・1721年6月、浅間山噴火
    ・1721年8月、目安箱が設置、庶民の直訴を受け付ける
    ・1721年、幕府、贅沢な衣服・調度・食物を禁ず
    ・1721年、初の人口調査 江戸50万人
    ・1722年、小石川薬園(現在の小石川植物園)が出来る(目安箱の効果)
    ・1722年、出版書籍業者に取締令が出される
    ・1722年、上げ米の制を制定し、参勤交代を緩和(幕府の権威回復と財源の回復)
    ・1722年、小石川薬園に施薬院小石川養生所を設ける(目安箱の効果)
    ・1723年、心中事件を扱った出版・上演を禁ずる
    ・1723年、江戸大火、幕府が瓦屋根を奨励
    ・1724年、大坂大火、市街の大半408町焼失
    ・1732年、享保の大飢饉、米価高騰
    ・1733年、江戸で米問屋打ち壊し起こる
    ・1742年、大岡忠相ら公事方御定書を編纂、裁判の基準とする
    ・1745年、江戸大火

    🎺9代目将軍 徳川家重
    ・1750年各地で一揆多発
    ・老中田沼意次、幕府の財政が行き詰まり、商業重視の政策実施
     (後、米不足の原因とされて反感を買うことに)
    ・1755年、宝暦飢饉(奥羽地方冷害、餓死者多数)

    🎺10代目将軍 徳川家治
    ・1768年、老中水野忠邦側用人そばようにんに就任する
    ・1771年伊勢で「おかげ参り」大流行、御蔭参りに200万人が参加
    ・1772年江戸大火(目黒行人坂火事)、死者1万人を超す
    ・1778年江戸の取り締まり強化
    ・1778年、ロシア船が厚岸来航、松前藩に通商要求、
    1779年、松前藩がロシア船の要求を拒否
    ・1782年、天明の大飢饉が始まる
    ・1783年、浅間山が噴火、死者466人

    てえヘンだ

    浅間山は、江戸時代に約20回も噴火したんですって。
    中でも一番大きな噴火は、1783年の噴火 
    飢饉もあったし、大変だったでしょうね!


    ・1785年蝦夷地調査隊を派遣
    ・1786年、林子平「海国兵談」(国外からの侵略に備えて軍備の充実を説いたが、幕府を批判したとされて松平定信に罰せられた)

    文化的な動き ~江戸中期・元禄文化

    🌸学問…朱子学…  陽明学 古学
        …歴史学… 新井白石、水戸家、林羅山
        …自然科学…本草学(薬物学)貝原益軒、農学、和算、天文学
        …国文学…戸田茂睡、契沖、北村季吟

    🌸建築
    …東大寺大仏殿、善行寺本堂の再建(火災による消失のため)

    🌸庭園
    …回遊式庭園…小石川後楽園(水戸徳川家の屋敷)、兼六園、偕楽園
    …六義園
      
    🌸絵画
    …大和絵 土佐派 土佐光起が朝廷絵師として活躍
    … 〃  住吉派 住吉如慶・具慶が代々幕府の御用絵師 例)「洛中洛外図巻」

    … 〃  琳派  尾形光琳 例)「紅白梅図屏風」「燕子花図屏風」
    …浮世絵 菱川師宣 「見返り美人」

    🌸工芸
    …陶器 野々村仁清(日本風の優美な意匠を完成)
         例)「色絵吉野山図茶壷」「色絵藤花文茶壷」「色絵月梅文茶壷」

    …蒔絵 尾形光琳 尾形乾山 「八橋蒔絵螺鈿硯箱」
    …染物 友禅染 宮崎友禅 

    【江戸中期の色彩事情】  ~元禄文化~ 

    幕府からたびたび出される衣服についての法令により、
    禁色にならないように、原料を変えたり、
    染め方を変えたりしながら、新しい色を生み続けました。


    そして、江戸中期以降の流行色は、四十八茶百鼠しじゅうはっちゃくねず
    と言われる「四十八茶」の意味するたくさんの茶色
    が生まれました。


    その多くは、人気の歌舞伎役者の舞台の役者色
    だったのです。
    微妙な違いの色目に名前を付け、それが、
    流行となるとは、粋な愉しみに違いありませんね

    五代目市川団十郎が着ていた衣装の
    「団十郎茶」

    五代目市川団十郎の大紋着抜身持ち だいもんぎぬきみもち 勝川春章 江戸時代・18世紀 錦絵 所蔵者:東京国立博物館
    五代目市川団十郎の大紋着抜身持ち だいもんぎぬきみもち 勝川春章 
    江戸時代・18世紀 錦絵 所蔵者:東京国立博物館

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    【江戸後期】  じつは、たくましく江戸を楽しんでいた人々

    大人気の女形、三代目瀬川菊之丞が黒地の衣装
    町人への影響も大 (黒で華美を抑えておとがめなしへ工夫)

    三代目瀬川菊之丞の娘道成寺 さんだいめせがわきくのじょう むすめどうじょうじ 勝川春章筆 江戸時代・18世紀 錦絵 所蔵者:東京国立博物館
    三代目瀬川菊之丞の娘道成寺 さんだいめせがわきくのじょう むすめどうじょうじ 勝川春章筆 江戸時代・18世紀 錦絵 所蔵者:東京国立博物館

    下の「三囲花見」のお三方は、派手とは違う、
    落ち着いた茶色系を取り入れていますね。

    三囲花見
みめぐりのはなみ
喜多川歌麿
    三囲花見 みめぐりのはなみ 喜多川歌麿 江戸時代・寛政11年(1799) 
    出典:ColBase (https://colbase.nich.go.jp)

    政治の主な動き いよいよ外国からの影響も大きくなる「天明~慶応」 

    🎺11代目将軍 徳川家斉
    ・1787年5月、江戸、大坂など各地で打ち壊しが起こる(天明の打ち壊し)
    ・1787年7月、老中 松平定信が寛政の改革を始める(三大改革の2回目)
    ・1788年1月、京都大火(1424町が延焼、二条城も焼失)
    ・1789年、諸大名に囲米を命ずる(備蓄させた)
    ・1791年、山東京伝、洒落本「仕懸文庫」などの刊行で手鎖50日の処罰
    ・1791年、米国商船のレイディ・ワシントン号が和歌山県串本町に寄港
    ・1792年、尊号事件が起こる(朝廷が幕府に対して抗議を行なった)
    ・1797年、ロシア人が択捉島(えとろふ)に上陸する
    ・1804年、ロシア使節レザノフが長崎に来航し通商を要求
    ・1805年、ロシアのレザノフの通商要求を拒否
    ・1806年、ロシア船が樺太の松前藩会所を襲撃
    ・1807年、ロシア船を打ち払い
    ・1811年、幕府、5カ年の倹約令を発布
    ・1817年、葛飾北斎、120畳敷きの大達磨を描く
    ・1817年、イギリス船が浦賀に来航する
    ・1818年、イギリス人ゴルドンが浦賀に来航し貿易を要求
    ・1821年、伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」完成
    ・1824年、幕府が拒否シーボルトが長崎で「鳴滝塾」開校
    ・1830年、おかげ参りに500万人が参加し、伊勢神宮を参拝する
    ・1833年、天保の大飢饉が始まる、米の買い占めを禁止
    ・1834年、水野忠邦が老中に就任、天保の改革を始める
    ・1834年、大坂堂島で大火、7560戸焼失
    ・1836年、甲州一揆、各地でも一揆、打ち壊し頻発

    🎺12代目将軍 徳川家慶
    ・1837年、大塩平八郎の乱が起こる
    ・1841年、天保の改革(~1843)(三大改革の3回目)

    こんな浮世絵版画見つけました。
    寺子屋では、子ども達が先生にいたずらしてます。
    いつの世も、こんな子ども達が、世の中を明るくしてくれてますね。

    歌川広重 「寺子屋遊び」
    歌川広重 「寺子屋遊び」出典:「浮世絵の子どもたち」


    ・1841年、奢侈禁止令を公布
    ・1844年、オランダ国王親書が幕府に届く
    ・1846年、アメリカ東インド艦隊来航、仏米船など渡来

    外国船が頻繁に現れることもあり、知識を求める社会の風潮に応える絵で、
    一般大衆の理解を広める役割を果たしました

    万国山海輿地全図 ばんこくさんかいよちぜんず 長久保赤水/述 江戸時代・弘化4年(1847) 色摺 27.8×38.4 所蔵者:東京国立博物館  
    万国山海輿地全図 ばんこくさんかいよちぜんず 長久保赤水/述 江戸時代・弘化4年(1847) 色摺 27.8×38.4 所蔵者:東京国立博物館 


    ・1847年、最初の「安政の大地震」
    ・1852年、歌舞伎ブーム
    ・1853年、黒船来航アメリカのペリー率いる四隻の黒船が来航して幕府に開国を要求
    ・1854年、日米和親条約を締結
    ・1854年4月、京都で大火(禁裏焼亡)
    ・1854年6月、伊賀上野地震、死者995名
    ・1854年8月、日英和親条約
    ・1854年11月、安政東海地震が発生、東海道の交通途絶、
      下田に津波、プチャーチン乗船の露艦船沈没
    ・1854年12月、日露和親条約
    ・1855年10月、安政の大地震、倒壊消失家屋14346戸、町人の死者4千人余

    🎺14代目 徳川家茂
    ・1858年6月、日米修好通商条約を締結する
    ・1858年9月、安政の大獄が起こる
    ・1860年3月、桜田門外の変、水戸浪士らが井伊直弼を暗殺する
    ・1862年8月、生麦事件で薩摩藩士がイギリス人を殺傷する
    ・1864年、「ええじゃないか」が全国に拡大
    ・1864年6月、池田屋事件、新撰組が池田屋を襲撃
    ・1864年8月、禁門の変、長州藩兵が幕府軍と禁裏諸門で交戦、第一次長州征伐へ
    ・1864年9月、下関戦争
    ・1866年、各地で一揆・打壊し民衆蜂起
    ・1866年6月、第二次長州征伐

    🎺15代目 徳川慶喜
    ・1867年6月、大政奉還などの薩土盟約7カ条が結ばれる
    ・1867年8~12月、
    ・1867年10月、15代徳川慶喜が政権を朝廷に返し、江戸時代と江戸幕府の終わり

    ・1867年12月、王政復古の大号令で明治新政府が樹立
    ・1868年1月、戊辰戦争が勃発、鳥羽・伏見の戦い
    ・1868年3月、江戸城無血開城、西郷と勝海舟の合意により実現
    ・1868年4月、新政府軍が江戸入城、慶喜が水戸へ退去する
    ・1868年7月、江戸を東京と改称
    ・1868年9月、明治と改元される、会津藩降伏
    ・1871年廃藩置県が行われる

    文化的な発展は多岐にわたる 「化政文化」文化~文政

    🌸学問
    [経世論] 
    ・海保青陵 (重商主義を主張)
    ・本田利明 (開国による重商主義貿易を主張)
    ・佐藤信淵 「農政本論」

    [水戸学] 尊王攘夷論に傾斜
    [国学]  平田篤胤の復古神道
    [自然科学]
    ・地理学 伊能忠敬 全国の沿岸を実測
    ・天文学 高橋至時 「寛政暦」
    ・「蛮書和解御用」を設置(東京大学の元)
    ・志筑忠雄 「暦象新書」で万有引力説と地動説を紹介


    [洋学に関わる事件]
    ・シーボルト事件
    ・蛮社の獄、モリソン号事件


    [教育 私塾]
    咸宜園かんぎえん (折衷派)設立者 広瀬淡窓 大分県 1817年門弟3,000人超
    鳴滝塾 設立者 シーボルト 長崎県 1824年
    洗心洞 設立者 大塩平八郎 大阪 1830年頃
    適塾  設立者 緒方洪庵 大阪 1838年
    松下村塾 設立者、玉木文之進(吉田松陰の父)1842年


    🌸文学
    [小説]
    ・(洒落本) 山東京伝 「仕懸文庫」など多数
    ・(人情本) 為永春水春色梅児誉美(暦)」
    ・(合巻) 柳亭種彦偐紫田舎源氏
    ・(滑稽本) 式亭三馬 「浮世風呂」、十返舎一九東海道中膝栗毛
    ・(読本)  滝沢馬琴南総里見八犬伝」「椿説弓張月」 
          上田秋成雨月物語


    [俳諧] 小林一茶おらが春」、与謝蕪村
    [和歌] 香川景樹  古今朝で平明な歌
         良寛  万葉調で同心あふれる歌
    [狂歌] 太田南畝 (くだけた短歌)
    [川柳] 柄井川柳


    …[地方の文芸] 鈴木牧之 「北越雪譜」雪国の自然や生活を紹介


    🌸美術
    …[浮世絵] 葛飾北斎富嶽三十六景」、歌川広重 東海道五十三次
     [写生画] 呉春柳鷺群离図屏風
    [文人画] 田能村竹田谷文晁江馬細香渡辺崋山鷹見泉石像
    [西洋画] 亜欧堂田善浅間山図屏風


    🌸芝居
    …[芝居小屋] 常設の歌舞伎劇場(見世物、曲芸、講談などの寄席も発達)
    [歌舞伎] 市川団十郎、尾上、沢村、中村
    [脚本家] 鶴屋南北「東海道四谷怪談」、河北黙阿弥「白浪物」
    [村芝居] 地方各地で歌舞伎をまねたものを演じるようになった


    🌸庶民の暮らしと信仰  
    [寺社参詣] 伊勢神宮善行寺金毘羅宮などに巡礼
    縁日、開帳、富突(宝くじ)などの催しも盛ん


    [湯治・物見遊山など庶民の旅] 菅江真澄「菅江真澄遊覧記」
    [行事] 五節句、彼岸会、盂蘭盆会など
    [講] 農山漁村の同業者組織のイベント
       月待(お月見)、日待、庚申講(民間信仰の行事)
    [芸能] 猿回し、万歳、瞽女ごぜ、座頭

    【江戸後期の色彩事情】 次々と生み出す力 ~化政文化~

    冨嶽三十六景・御厩川岸より両国橋夕陽見
ふがくさんじゅうろっけい おんまやがしよりりょうごくばしゆうひみ 浮世絵 横大判 錦絵 葛飾北斎筆 縦25.9 横38.2 所蔵者:東京国立博物館
    冨嶽三十六景・御厩川岸より両国橋夕陽見  葛飾北斎筆
    おんまやがしよりりょうごくばしゆうひみ 浮世絵 横大判 錦絵  縦25.9 横38.2 所蔵者:東京国立博物館

    青色系 ベロ藍縹色はなだいろ     

    上の浮世絵は、葛飾北斎が描いた木版画で、東京、墨田川です。

    空の黒いグラデーション。濃い青であらわされた川。

    陽が落ちて、だんだんと風景から色が失われていく短い時間です。

    この冨嶽三十六景シリーズの最初の頃には、
    「ベルリン・ブルー」と呼ばれた青い合成顔料が多く使われています。


    人々の輪郭線にも使われていて、青い余韻の残る絵になっています。

    葛飾北斎のほか、渓斎英泉、歌川広重なども多用して
    「ベロあいとも呼ばれました。


    日本人になじみの深いあい色」とは、少し趣が違いますね。

    裃 縹麻地微塵小桜小紋 隅取角に二つ菱紋付 武家装束 江戸時代・18世紀 麻、型染(小紋) 所蔵者:東京国立博物館

    次に、これは、武家装束の「裃」(かみしも)ですが、町人でも礼装には、このような「裃」を着用したそうです。

    この「裃」の色は、縹色(はなだいろ)です。現代のサラリーマンの定番スーツのイメージでしょうか。

    裃 縹麻地微塵小桜小紋 隅取角に二つ菱紋付(かみしも はなだあさじみじんこざくらこもん すみとりかくにふたつびしもんつき)  江戸時代・18世紀 麻、型染(小紋) 所蔵者:東京国立博物館

    流行色は、ねずみ 色系  

    江戸の後期には、
    四十八茶百鼠しじゅうはっちゃひゃくねず  の百鼠と表現された、
    鼠色系のバリエーションが流行りました。



    実際にも100以上の色があったといいます。
    明度と彩度が低めの「鼠系」、
    微妙な色違いを呼び分けていたんです。素晴らしいですね!



    男性は、黒づくめの装いが盛んだったようです。
    女性にまで及び、大奥から町娘まで黒を取り入れ、
    粋な「黒えり、黒帯」が流行しました。

    江戸名所百人美女図 歌川国貞(三代豊国)筆 江戸時代・19世紀 錦絵 34.5×24.2 所蔵者:東京国立博物館
    江戸名所百人美女図 歌川国貞(三代豊国)筆 江戸時代・19世紀 錦絵 34.5×24.2 所蔵者:東京国立博物館

    ときがら茶#db8e71

    桜鼠さくらねずみ #d0c1c2

    銀鼠ぎんねずみ #bbbcbf

    将軍名天皇元号期間享年冠位出身家
    徳川家康後水尾天皇慶長8年~
    慶長10年
    2年2ヶ月75従一位
    太政大臣
    安祥松平家
    徳川秀忠後水尾天皇慶長10年~ 元和9年18年3ヶ月54従一位
    太政大臣
    徳川氏
    徳川家光後水尾天皇
    -明正天皇-
    後光明天皇
    元和9年~寛永~正保~慶安4年27年9ヶ月48従一位
    左大臣
    徳川将軍家
    徳川家綱後光明天皇
    -後西天皇-
    霊元天皇
    慶安4年~承応~明暦~万治~寛文~延宝8年28年9ヶ月40正二位
    右大臣
    徳川将軍家
    徳川綱吉霊元天皇-
    東山天皇-
    中御門天皇
    延宝8年~天和~貞享~元禄~宝永6年28年5ヶ月64正二位
    右大臣
    館林徳川家
    徳川家宣中御門天皇
    -桜町天皇
    宝永6年~正徳2年3年5ヶ月51正二位
    内大臣
    甲府徳川家
    徳川家継桜町天皇正徳3年∼享保元年3年1ヶ月8正二位
    内大臣
    徳川将軍家
    徳川吉宗後桜町天皇
    -桃園天皇
    享保元年~元文~寛保~延享2年
    29年1ヶ月
    68正二位
    右大臣
    紀州徳川家
    徳川家重桃園天皇
    -後桜町天皇
    延享2年~宝暦10年
    14年6ヶ月
    51正二位
    内大臣
    紀州徳川家
    10徳川家治後桜町天皇
    -後桃園天皇
    -光格天皇
     宝暦10年~明和~安永~天明6年

    26年4ヶ月

    50従一位
    太政大臣
    徳川将軍家
    11徳川家斉光格天皇
    -仁孝天皇
    天明7年~寛政~享和~文化~文政~天保8年
    50年
    69従一位
    太政大臣
    一橋徳川家
    12徳川家慶仁孝天皇
    -孝明天皇
    天保8年∼弘化∼嘉永6年16年2ヶ月61従一位
    左大臣
    徳川将軍家
    13徳川家定孝明天皇嘉永6年~安政5年4年8ヶ月35正二位
    内大臣
    徳川将軍家
    14徳川家茂孝明天皇安政5年~万延∼文久∼元治∼慶応2年7年9ヶ月21従一位
    右大臣
    紀州徳川家
    15徳川慶喜孝明天皇
    -明治天皇
    慶応2年12月5日~
    慶応3年12月9日
    1年77従一位
    内大臣
    一橋徳川家

    まとめ と 伝統色一覧
    【緑・青・黄・橙・赤・紫・桃・黒・鼠・茶】


    いかがでしたか?
    日本で育まれてきた色、いろいろ。

    1色を調べていくだけで、とても興味深い歴史が
    発見できて、キリがありません。(笑)


    たくさんの色に囲まれて、しかも禁色はありません!
    先人の苦労と今の自由に感謝して、享受していきたいですね。


    では、最後に、日本の長い歴史の中で、古代から使われてきた色の数々。
    系統別に、並べてみました。

    通りすがり

    スクロールして、色のシャワーを浴びるだけで、
    癒されますぞぉ

    ではでは~

    緑系 伝統色 

    青系 伝統色

    黄系 伝統色

    橙系 伝統色

    赤系 伝統色

    紫系 伝統色

    桃系 伝統色

    黒系 伝統色

    鼠系 伝統色

    茶系 伝統色

    色票の数値データなど、主に『時代別 日本の配色辞典』城一夫(パイ インターナショナル)を参考にいたしました。写真も豊富なので、機会があれば、ぜひご一読ください。